カモミールnetマガジン バックナンバー(ダイジェスト版)

 2012年7月号 

◆ 目次 ◆ ----------------------------------------------------------------------

(1) 所長だより
(2) 教育時事アラカルト
(3) 学校経営の視点から
(4) 今月のおすすめ書籍

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◇ 所長だより ◇

シンガポールの小学校での教育方法
教職教育開発センター所長   吉崎静夫

 シンガポールの児童生徒は、ご存知のように、理数科の基礎学力を測る国際学力調査TIMSSでも、読解力、数学、科学の応用学力(リテラー)を測る国際学力調査PISAでも常に世界のトップ水準にあります。まさに、国策として教育力の向上をめざしてきた成果であるといえます。というのも、この国は「教育」と「国防」に予算を重点的につぎ込んできたからです。しかし、近年、この国においても学校教育のあり方、特に教育方法に変化がみられます。それは、トラッキング制度(能力別学級編成)からバンディング制度(習熟度別学級編成)への移行です。

 シンガポールではずっと徹底したトラッキング制度が行われてきており、小学校4年終了の時点で、学校内の試験があり、その結果で5・6年生のクラスが能力別に3コース(EM1・EM2・EM3/EM=English Mother tongue)に振り分けられていました。しかし、2008年から、5・6年生を対象に教科ごとのバンディング制度が導入されました。バンディング制度とは、英語・母国語・算数・理科において、教科ごとに習熟度別コースに分ける制度です。これによって、柔軟に児童の個性や得意分野を生かし、苦手な教科を克服することができると考えられています。

 そして、シンガポールの教育省が出している保護者向けのパンフレットによれば、「2008年5・6年におけるEM3の能力別クラスに替わってSubject-based Banding(SBB)が導入される。SBBは、子どもに自分の能力によって、教科の標準か基礎のレベルの選択権を与える柔軟性を意味する。例えば、もし子どもが英語と母国語はできるが、それに比べて算数と理科が苦手な場合、その子は英語と母国語は標準レベル(standard level)を、算数と理科は基礎レベル(foundation level)を選べる。これは、子どもの得意な教科を改善し、苦手な教科の基礎基本を強めることを助ける」というわけです。

 そこには、行き過ぎた学力競争を緩和しながら、(ア)児童の違った能力を認め、彼らに自分達の得意な教科に専念する柔軟さを与える、(イ)違った能力を持った児童間でのふれあいや相互作用を支援する、といったねらいがあります。

 私たちは、ある小学校で5年理科(基礎クラス/11人)の授業を見学しました。なお、シンガポールでは日本と同じように、理科は小3から始まります。その授業は、「熱エネルギー」の単元で、「ものの冷たい状態を持続させる方法を考えよう」ということが学習課題でした。授業の内容は、まず、ワークシートを見ながら、課題を教師から説明した後、5人と6人の2グループに分かれて、実験方法と予想について話し合い、考えたことをワークシートに記入していました。その後、その予想に基づいて、アルミ箔を紙コップにまきつけるなどの実験が行われていた。そして2分ごとに温度を測り、結果をワークシートに書き込んでいました。最後に、結果を踏まえてそうなった理由と、熱について学んだことをまとめていました。

 ファンデーションクラス(基礎クラス)でしたが、どの子も大変意欲的でグループ活動にも積極的に参加している姿が見られました。そこで、現地の学校ボランティアの方に、基礎クラスということに対して、子どもたちが劣等感などを抱かないのかという質問をしたところ、「小さい頃から成績を点数で見ているので、自分の情況は把握できている。なので、バンディングによって劣等感を感じるよりは、むしろもっとできるようになりたいという気持ちの方が強い」と言っていました。

 授業がしっかりとしていて、子どもたちの学習規律が高いことが高学力につながっていると改めて感じました。やはり、このことは私たちが秋田県や福井県で見出したこととまったく同じでした。

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◇ 教育時事アラカルト ◇

プール指導と学校事故
教職教育開発センター教授  坂田 仰

 夏本番を迎えて,小学校ではプール指導の真っ盛りである。プールではしゃぐ子どもの姿は,夏の風物詩の一つといえるが,一歩間違えると大きな事故に繋がりかねない危険性をはらんでいる。排(環)水口等に足を取られる,スタート時に深く入水し,水底に頭部を打ちつけるといった事故が,毎年,起きている。

 これまで何回か触れてきたように,学校は,児童・生徒が自己の管理下にある間,その生命・身体を保護する法的義務を負っている(安全配慮義務・安全保持義務)。教育活動から生ずるおそれのある危険から児童・生徒を保護しなければならず,危険を伴う内容を指導する際には,事故の発生を防止するために十分な措置を講じるべきとされている(最高裁判所第二小法廷判決昭和62年2月6日)。この点,水泳は,死亡事故や重篤な後遺障害が残る事故が発生する危険性が高く,教員に求められる義務は高度なものとなる。裁判所もその特性を重視し,「水泳は生命に対する危険を生ずるおそれもあるスポーツ」である旨を繰り返し強調している(例えば,東京地方裁判所判決平成13年5月30日等)。

 プール指導を開始するに当たって,「排(環)水口の蓋の設置の有無を確認し,蓋がない場合及び固定されていない場合は,早急にネジ・ボルト等で固定するなどの改善を図るほか,吸い込み防止金具についても丈夫な格子金具とするなどの措置をし,いたずらなどで簡単に取り外しができない構造とすること」は,最低限の義務といえる(文部科学省「水泳等の事故防止について」15文科ス第109号平成15年6月2日)。しかし周知のように,排(環)水口の蓋等の固定は必ずしも十分ではなく,学校現場の危機管理意識の低さを指摘する声は,現在も絶えることがない。

 福島県立高等学校のプール事故の例を持ち出すまでもなく,水泳においてはスタート時に重大事故が発生することが多い。その意味において,「飛び込み」禁止の徹底は,日常の指導において特に留意すべき事項といえる。例えば,大分地方裁判所判決平成23年3月30日は,自由練習の時間中に高校生がスタート台から飛び込み,プールの底に頭部を衝突させ,重篤な後遺障害が残る傷を負った事案である。学校側は,水泳訓練を始める前に「飛び込み」の危険性や禁止を繰り返し指導していた。生徒は指導を無視し,ふざけ半分の飛び込みを行い,事故が発生している。本来であれば,生徒の自己責任とされてもやむを得ない事案である。しかし,判決は,教員が一時的に監視を解いていた点を問題視し,「監視を解けば,生徒が開放的になって事前の禁止事項を守らず,危険な態様でプールに飛び込むなどして,頚髄損傷等の重大な事故を起こす危険性があることを十分予見しえた」として,教員の注意義務違反を肯定している。

 事故を防止するために,教員がプールサイドで継続的に監視し,危険行為に及ぶ児童・生徒を発見した場合,これを制止すべき義務を負っていることは言うまでもない。だが,あまりにも学校側に求められる注意義務が過大になっていると感じるのは筆者だけであろうか。

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◇ 学校経営の視点から ◇

校長に求められる授業評価力と助言力
教職教育開発センター客員研究員 田部井洋文

間もなく夏休み。とはいっても、以前のように子どもたちは家庭、地域、文化施設あるいは自然の中に分け入って多様な体験等を行いながら過ごすという期間ではなく、プール教室や補習学習等といった学校でのサマースクールや宿泊行事等に通う日数が多くなっているようです。夏休み期間そのものも短縮されている地域もあります。教師は勤務日、親は仕事。だったら学校で一学期の復習や自由学習を、友達もいるし、図書室もあるし、安全だし、の保護者の声。一学期の学習内容の理解が十分でなかった子どもたちとは、この機会にもう少し時間をかけたいと思う先生方。公立学校の5日制の趣旨もどこかへ飛んで行ってしまい、既に土曜日授業が行われているのですから、「夏休みも学校で」という声は保護者の望むところ。学校も「止む無し」と言ったところかも。しかし、子育てに関する保護者の責任、地域社会の役割ということについて、改めて社会全体で考えなければいけないように思います。子どもが一定期間の生活や学習について自ら計画を立て、自分の意志と責任で取り組む活動を見守り、支える家庭と、子どもたちに多様な出番と役割の場を用意し、その取組みや努力に対して多くの大人から称賛・承認の声を掛け、子どもたちの挑戦心や忍耐力を養い、ここの住民の一人という自覚や認識をもてるようにしていく地域社会とを再度創りだしたいものです。

ところでこの時期、各学級担任、教科等担任は、子ども一人一人の学習態度や作品等を評価しながら、一学期の育ちの様子を振り返り、通知表等への記入等を行っていることと思います。校長も教員の学級経営や授業の様子を直接見て回り、改善点などを指摘されながら、教育課程の実施状況を評価されていることと思います。授業については校長としてどのようなことを指摘されたのでしようか。

以前、次のようなデータを見ました。出典等を記録しておかなかったため不十分さはあるのですが、学級崩壊の背景にあるものは、「授業」か、「教師と子どもの関係」か、に関する教員と子どものアンケート結果です。

教員の意見
@「いい授業をしていれば学級崩壊は起こらない」
    小学校教員 「とても思う」・・・16.6%
                           「やや思う」・・・37.6%   計54.2%
    中学校教員 「とても思う」・・・14.1
                           「やや思う」・・・37.7    計51.8

A「教師と子どもの関係がよければ学級崩壊は起こらない」
    小学校教員 「とても思う」・・・48.8
                           「やや思う」・・・41.3    計90.1
    中学校教員 「とても思う」・・・42.3
                           「やや思う」・・・41.9    計84.2

子どもの意見(小学生は高学年)
B「授業をしている先生が好きだったら授業を邪魔する子はいないと思う」
    小学生   「とても思う」・・・33.0
                         「やや思う」・・・35.4    計68.0
    中学生   「とても思う」・・・19.3
                         「やや思う」・・・38.0    計57.3

C「授業が楽しかったら邪魔する子はいないと思う」
    小学生   「とても思う」・・・40.9
                         「やや思う」・・・33.2    計74.1
    中学生   「とても思う」・・・33.0
                         「やや思う」・・・39.4    計72.4

このデータをどう見るかということになりますが、

 小学校高学年になると、子どもたちは、「先生が好き」かどうか、と言うことよりも、「授業が楽しい」かどうか、ということの方が学級崩壊との関係が強いと見ています。中学生ではより明確に表れています。教員の中には、「教師」より「授業」、という意識が弱いことが読み取れます。

 もう一つは、「いい授業」より「教師と子どものいい関係」ができれば「学級崩壊は起こらない」、「いい関係」ができなければ「いい授業」はできにくいという教員の考え方。「いい関係」と「いい授業」は相互関係にあり、共によりよくなることが望まれますが、子どもたちのアンケートでは、「いい関係」を作るには、「いい授業」をすること、と考えているようです。子どもの立場に立てば、まず先生とのいい関係があって、いい授業が成立するのではなく、いい授業を行うことによって、いい関係が成立するという考え方になります。

 データそのものについてもいろいろな意見があると思いますが、私が注目したいのは「子どもたちの授業への期待」ということです。新しい知的発見のある授業、未知の問題を仲間と共に解決していく期待感あふれる授業、できなかった自分ができるようになっていく喜びのある授業、次々と湧き出る新たな疑問に挑む探求の楽しさを感じられる授業、・・・教材と子どもと教師、この間に繰り広げられる発見や期待や喜び・楽しみ・・・。子どもたちは先ずこのようないい授業を求めていることに目を向けたいと思います。この中から、教師を慕い、敬うといういい関係ができてくるのかも知れません。

 そこで、話を戻しますが、一人一人の教員の授業に対して、校長としてどのような助言・アドバイスをされたのでしようか。指導されている教科等に関する深い教材認識について、それを授業化する授業構想と指導力について、各授業を通して身に付ける力の総合体と目指すべき子ども像との関係について等をアドバイスされたことと思いますが、ある学校の校長先生は次のようなアドバイスをされていました。それは生徒にセルフエスティームを育むことが大きな課題であったことから、その観点からの授業アドバイスでした。

 校長先生は、授業の中で教員が生徒を「ほめる」「互いに認め合うようにする」「自分の学習を振り返らせるようにする」ための言葉掛けについて記録を取って助言しました。「あの場面で、生徒の作成したあの作品を取り上げ、ほめ、全体に紹介すると自信を持つのでは」「誰々のあのプレーをほめることで、生徒同士が認め合うようになるのでは」「今日の学習で自分の頑張ったことや新しく学んだことを書くように指示することで、自分の高まりに気付くのでは」等々。

 又、校長先生は、学習活動についても細かく助言されていました。それは「共同学習の場面づくりを」「認め合う場面づくりを」「自分の意見が言いやすくなるような場面づくりを」「達成感を味わえる場面づくりを」などについてでした。「班別に合評会を行うようにするとよいのでは」「互いの考えのよいところをメッセージカードに書いて渡したら」「何々の補助器具を紹介すれば、自分であの活動をやりきり、満足できたのでは」等々。

 校長の頭の中には、教育目標の実現のためには今どのように授業を改善すべきか、そのことにより教師と子どもたちの信頼関係が構築され、もって保護者等からの安心感も寄せられるという一連の構想があり、それに基づく授業アドバイスだったと思います。学校経営の大きな柱は、授業改善です。時代に求められる授業、子供の期待に応える魅力ある授業の創造に校長としていかにリーダーシップを発揮できるか、が問われます。教育目標に向けての校長の授業評価力と教師への助言力、が重要な経営能力になっていると思います。

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◇ 今月のおすすめ書籍 ◇

〜「勉強」を超えた「学び」とは 〜
「学ぶとはどういうことか」
佐々木 毅著 講談社
定価 1,200円(税別)

「学ぶ」ことの大切さについて異論を唱える人はあまりいないでしょう。しかし、「『学ぶ』とはどのようなことか」と問われると答えに窮するのではないでしょうか。昨年の東日本大震災と福島第一原発事故においては、図らずも科学者や専門家たちの「学びの蓄積」が試されることとなりました。そこで政治思想史研究の重鎮である著者は、「想定外」の連続に「想定内」のマニュアルが対応しきれなかった現実を見て、大災害は「これまでわれわれが『学んできた』こと、それを踏まえて当然だと思ってきたことを一瞬にして無にした」と感じます。そして、改めて「学ぶということ」を追究したのが本書です。

著者は、福沢諭吉の思想を中心に「学ぶ」ことの意味を歴史的・社会的な文脈で論じた上で、「学び」には「知る」、「理解する」、「疑う」、「超える」の4段階あると分析・整理しています。第1段階は、知識や情報を「知る」ことや記憶すること。初等教育から始まる知識や情報を「受け取る」というスタイルです。「学ぶ」というより「勉強」という言葉が適当で、「見方によっては、模倣のスピード競争という面があり、優秀であることはそれ以上でもなければそれ以下でもない」として、「『勉強』熱心なのはいいが、それが『学ぶ』ことそのものを独占するのは感心すべき状態ではない」と指摘します。第2段階は原因と結果の関係、いわゆる因果関係を「理解する」ことで、「個々バラバラな事象がお互いに一定の関係を持つものとして見えてくる、あるいは見えるようにすること」がポイントです。そして、第3段階は「事実や事実の関係とされているこうした知識や情報を『疑う』」ことであり、第4段階は「『疑う』という段階を超えて、事実や現実に対置される新たな『適切な』可能性を追求し、時には新しい境地に帰依すること」といいます。

すでに、初等中等教育においても「生きる力」や「PISA型学力」の育成等、第1段階を超えた「学び」が課題となっています。ところが、考えてみれば、すべての大人たちが第2段階以上の「学び」を十分体験してるわけではありません。夏休み、「教師」という日常から少し自由になって、「勉強」を超える「学び」とはどのようなことか、広く、深く考えてみるのもいいかもしれません。 (関)

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