カモミールnetマガジン バックナンバー(ダイジェスト版)

 2016年11月号 

◆ 目次 ◆ ----------------------------------------------------------------------

(1) 所長だより
(2) 教育時事アラカルト
(3) 小学校教師のための英語指導講座  -コンテクストに重点を置いた英語指導の勧め-

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◇ 所長だより ◇

教師の「行為の中の省察(reflection in action)」(1)
           教職教育開発センター所長   吉崎静夫

 今月から何回かにわたって、プロフェッショナル(専門家)としての教師がもつ特性について考えてみます。

 ショーン(Schon,D.A)は、「技術的合理性」から「行為の中の省察」へという言い方で、プロフェッショナル(専門家)がもつ特性を見事に表現しました。そして、この専門家像は、教師、看護師、ソーシャルワーカー(社会福祉士)、図書館司書などの対人関係の中で仕事をしている人々にプロフェッショナルとしての自覚と勇気をあたえました。というのも、これらの専門職は、医師、弁護士、公認会計士、エンジニアといったメジャーな専門家に比べて一段低く見られていたからです。しかし、ショーンは、定められた知識や技能を問題状況(特に、対人関係の状況)に当てはめることには限界があることを論述し、問題状況の中で専門家が自らの行為を省察しながら柔軟に対応することの重要性を指摘しました。

 ショーン自身は教師の仕事について少し述べているだけですが、ここでは授業における教師の行為と思考について、「行為の中の省察(reflection in action)」という視点から考えてみます。

 ショーンは、「有能な実践家は日々の実践の中で、適切な判断基準を言葉で説明できないまま、無数もの判断をおこなっており、規則や手続きの説明ができないまま、自分の技能を実演している」と述べています。

 ここでポイントとなるのが、有能な実践家(専門家)は、言葉では説明できない暗黙知を豊かにもっており、その知(ショーンのいう「行為の中の知」)を問題状況の認識・判断や的確な対応に有効に活用しているということです。

 では、暗黙知とは何でしょうか。このことを明確に述べているのが、マイケル・ポラニー(Michael Polanyi)です。彼は、「人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くことを知ることができる、という事実である」と述べたうえで、暗黙知について有名な具体例をあげています。それは、「我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千、あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし、それにもかかわらず、我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを、ふつう我々は語ることができないのである。そのため、この知識の大部分は言葉におきかえることができない」といことです。まさにその通りですね。

 では、どのような時、どうすれば暗黙知を取り出して省察することができるのでしょうか。教師の場合はどうでしょうか。来月号で考えてみたいと思います。

文献
ドナルド.A.ショーン(著)柳沢晶一・三輪健二(監訳)『省察的実践とは何か』鳳書房(2007年)
マイケル・ポラニー(著)佐藤敬三(訳)『暗黙知の次元』紀伊国屋書房(1980年)

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◇ 教育時事アラカルト ◇

共生教育下の事故を考える
           教職教育開発センター教授 坂田 仰

 インクルーシブ教育という用語が定着してから随分時間が経った。障害者と健常者の共生を目指し,様々な活動が進められている。学校現場もまた例外ではない。小学校や中学校ではもはや通級指導が一般的なものとなり,今後,高等学校にまで拡大していきそうな勢いである。

 だが,障害を有する児童・生徒はときに予期できない行動に出る。その結果,本人はもとより,他の児童等に危害が生じることがある。特別支援教育が導入されて以降,事故リスクの増大を懸念する声が学校現場に広がっていることを見落としてはならない(科学研究費補助金「障害を有する児童・生徒の学校事故に関する研究」研究代表者坂田仰)。

 例えば,共生教育清掃事故損害賠償訴訟は,通常学級の児童と特別支援学級の児童が共同で行う清掃作業の際,教員不在の状況の下,雑巾掛けをしていた健常児が転倒し,負傷した事案である(東京地方裁判所判決平成23年7月15日)。負傷した児童の側は,右隣前方で雑巾がけをしていた障害児が,雑巾を引っ張るように勢いよく前に進んだことが転倒の原因であるとし,損害賠償を求める訴訟を提起している。

 平成20年版の小学校学習指導要領において,清掃活動は,特別活動に位置づけられている(第6章第2共通事項 (2)日常の生活や学習への適応及び健康安全 エ清掃などの当番活動等の役割と働くことの意義の理解)。したがって,学校側が,清掃時間中の子どもの安全を確保する義務,いわゆる安全配慮義務を負っていることは疑いない。そして,その内容は,事故が発生した時間,場所,事故当事者の年齢・性格・能力,学校側の指導体制,教員の教育活動状況等の事情を総合的に考慮して決定されることになる(東京地方裁判所判決平成17年 9月28日)。

 周知のように,小学生は,十分な注意力や集中力を備えているとは言い難い。ましてや,雑巾がけは,子どもの体力が低下する中,事故の危険性があるとして,清掃活動から除外する動きすら存在している。これらの点を考慮するならば,共生教育の一環として雑巾がけを行おうとする場合,教員が,常時,滞在し,監督を怠らない等,慎重な配慮が求められることになろう。

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◇ 小学校教師のための英語指導講座   -コンテクストに重点を置いた英語指導の勧め- ◇
           家政学部児童学科特任教授 稲葉 秀哉

8 電車内の英語アナウンスで気になる表現(その2)

 10月号の内容に一部誤りがありましたので、お詫びと訂正をいたします。10月号では、「山手線では、車内表示装置に、例えば大崎駅に着く前に、次のような表示が出ます。“Now stopping at Osaki.”」と述べたのですが、実際には、電車が大崎駅に到着した後、「ただいま 大崎」という日本語の表示が出てから、“Now stopping at Osaki.”と英語の表示が出ることを確認しました。この英語の使い方は文法的に誤りですので、現在、JR東日本に対して指摘をしているところです。(11月14日現在、まだ回答はありません。) 今月号では、改めて、英語の「進行形」の用法について、電車内の英語表現を例にあげながら述べたいと思います。

(1) JRにおける“stop”の「進行形」の使い方の違い
先月号のDの文と似た例で、新幹線では、車内表示装置には、例えば、次のような文字が流れます。
 We will be stopping at all stations before arriving at Hakata terminal.- F
これは、「博多駅に到着するまではすべての駅に止まります。」という意味ですが、「Yahoo!知恵袋」では、次のような解説がなされています。

 We are stopping at Tokyo.
(進行形による近接未来>今止まりかけている、もうまもなく止まる<今停止中なのではない。)
 We will be stopping at Tokyo.
(上記進行形近接未来にwill<単純未来>が加わったもの。上に比べてまだ多少の時間があるニュアンスを含む。)

 JR山手線の車内表示装置には、例えば、秋葉原駅に着く前に、日本語の「まもなく 秋葉原」の表示に続いて、次のような英語の表示が出ます。
 Arriving at Akihabara.- G
そして、秋葉原に到着すると、日本語の「ただいま 秋葉原」の表示に続いて、次のような英語の表示が出ます。
 Now stopping at Akihabara.- H
このHの文は、どうやら「今、秋葉原駅に止まっているところです。」という意味で使っているようです。しかし、Hの文は、Gの文と同様に、「今、秋葉原駅に止まろうとしているところです。」という意味になります。なぜなら、“stop”という動詞は、[非状態的・非継続的・推移的]という意味特性を持った動詞なので、進行形にすると、「〜しようとしている」「〜しかけている」という意味を表すからです(9月号参照)。
 英語のネイティブ・スピーカーの中には、Hの文は、口語では、「今、秋葉原駅に止まっているところです。」の意味で使われると言う人もいます。しかし、それは文法的に誤りですので、公共の交通機関では使うべきではないでしょう。

(2) 日本の車内表示(アナウンス)における“will”の使い方
 上記(1)において、「Yahoo!知恵袋」での次のような説明を紹介しました。

 We are stopping at Tokyo.
(進行形による近接未来>今止まりかけている、もうまもなく止まる<今停止中なのではない。)
 We will be stopping at Tokyo.
(上記進行形近接未来にwill<単純未来>が加わったもの。上に比べてまだ多少の時間があるニュアンスを含む。)

この説明に「なるほど。」と納得される方も多いかもしれません。実際、“stop”を進行形にして、「これから止まる」というニュアンスを出すやり方は文法にかなっています。
 しかし、この “will be stopping at…”の“will”の使い方は、私鉄、JRのどちらにも共通する日本独特のものと言えるように思います。「助動詞の“will”は『未来』を表す。」という伝統的な学校文法に慣れ親しんでいる日本人が分かりやすいように配慮するという、車内表示文の作り手の意図が感じられます。そして、準急や急行、特急の場合のように、次の駅まである程度の時間や距離がある時には、決まって“will be stopping at…”や“will be arriving at…”のように“will”を使っています。この使い方は、車内表示の作り手の「信念」であるようです。
 しかし、先月号でも述べたように、次の停車駅までは、ある程度の距離があり、時間がかかるとしても、路線のダイヤで次の停車駅は決まっており、変わる余地のない客観的事実ですから、“will be”ではなく、“is”でよいのです。つまり、Fの文の代わりに、
 We will stop at all stations before arriving at Hakata terminal.
という表現で、正確な情報を簡潔に表します。
 「アメリカ英語」と「イギリス英語」の微妙なニュアンスの違いや表現の違いということもあるでしょう。しかし、日本人に分かりやすくするという意図が、かえって冗長的で不自然な英語表現を作り出すようであってはなりません。特に、JRにおいては、“stop”の「進行形」の使い方に違いがあり、非文法的な使い方が日常的になっていることは大きな問題です。ますますグローバル化が進む日本です。社会全体で英語教育を見直していくことが不可欠です。
                   (次号に続く)

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