カモミールnetマガジン バックナンバー(ダイジェスト版)

 2014年11月号 

◆ 目次 ◆ ----------------------------------------------------------------------

(1) 所長だより
(2) 子どもから学ぶこと
(3) ちょっと振り返り

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◇ 所長だより ◇

専門的な学習共同体(2)
教職教育開発センター所長   吉崎静夫

今月は、先月の理論紹介に続いて、「専門的な学習共同体 (Professional Learning Community: PLC)」の実践例として学校 研究を取り上げます。

神奈川県茅ケ崎市立浜之郷小学校は、子どもと教師と親と市民が 連携して「学びの共同体づくり」を推進する茅ケ崎市のパイロット・ スクールとして1998年に創設されました。

 同校の理論的指導者である佐藤学氏は、「浜之郷小学校では、 授業の事例研究による子どもの事実の語り合いを、専門家としての 教師が育ち合う関係(同僚性)づくりの基盤としてきた。同僚性の 構築こそが、学校改革の中心なのである」と述べています(佐藤学・ 茅ケ崎市立浜之郷小学校『学校を創る』小学館、2000年、20頁)。 まさに、同校では、同僚性の構築を授業研究によって行っているのです。

 そして、同校の初代校長である大瀬敏昭氏も、「学校改革のため には、実は『内側に開く』、つまり教室を開き、いつでも授業を公開 するという取り組みが重要である。そのためには、教師一人ひとりが、 授業を中心とした仕事を公開し、観察・批評しあい、創造しあうと いう『同僚性』の構築が何よりも求められる」と指摘しています (同書、37頁)。

 両氏が述べている「同僚性」は、まさに専門的な学習共同体を 意味しています。つまり、そこには、先月号で紹介したHord (2009)が いう「PLCが成功するための条件」としての「@共同体の成員性 (Community membership)→学校の教師全員が少なくとも月に1回 (可能であればもっと多く)集まること」、「Aリーダーシップ (Leadership)→教師の学習が児童の学習にいかに貢献するのか、 についての教師たちの協働的な話し合いを促し、支えることが校長の 努力の中核にあること」、「B学習のための時間(Time for learning) →会合のための時間を見出し、作り出すために教師の協力を得られるか どうかはまさに校長の役割であること」、「C分散化されたリーダー シップ(Distributed leadership)→校長が勢力と権威を共有化(分散化) させようとすること」が見事に結実しているのです。

さらに、同校では、授業を改革するために「授業研究の作法六か条」を 設けています。それらは、@年間一人最低1回は公開する、A授業の 上手下手は問わない。授業の巧拙は「生まれつき」であることを自覚し、 「自分らしいいい授業」をめざす、B指導案の形式は決めない。 なくてもいい。また、指導案作成にあたっては、完成するまで他は 口を出さない、C授業公開にあたっては、事前にあまりエネルギーを 注がない。事後の研究会を充実させる、D授業は途中で止めてもいいし、 延々と続けてもよい。失敗したらもう一度挑戦する。同じ授業を何度でも 公開してよい、E参観者も授業に参加してよい、というユニークなものです。 まさに普段着の授業研究が継続の鍵なのです。

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◇ 子どもから学ぶこと ◇

大人からの学び〈2〉
教職教育開発センター客員研究員 木村俊彦

 平成9年、京都教育大学附属幼・小・中学校合同研究発表大会で行わ れた中野重人(生活科の誕生に大きく関わられた方と認識しています) 先生の記念講演からのお話です。

(その1) 冒頭、「今日授業を参観された皆さん、気になった子どもの名前を 3人言えますか?」という質問から始まりました。続いて、「多くの 方は無理かもしれませんね。なぜなら、授業を教室の後ろで見ていた でしょうから」さらに、「学習の主役である子どもの表情は背中から では見ることも感じることもできません。授業者の声は後ろにいなく ても聞こえるのです」と話されました。当時私は教員歴20年を経過 していましたが、授業の参観は当然教室の後ろでするものと思い込ん でいました。

(その2) この発表大会は、全国に数ある大学附属学校において幼・小・中学校が 初めて同時開催を試みた会であるということでした。この事実を受け、 中野先生は次の話をされました。「まさか、ここに参加された先生方は 自分の所属する校種の授業だけをご覧になったわけではないですよね。 やっとの思いで合同開催をしようと英断された当学校の趣旨を考えても、 せっかく他の校種をご覧になれる機会を生かさないのはもったいないと 思います。同じ学校の授業は普段でも見ることができるわけですし、 学習は、幼稚園・小学校・中学校と一連の流れの中で成立しているの ですから」という指摘です。当然のように、私は小学校のみを参観して いました。

(その3) 「今まで私は大きな間違いをしていることに気付かされました」と言うの です。「幼稚園の参観をしていた時泥遊びの学習をしていた子ども達に 『何作っているの?』と尋ね、『果物』『上手だね』と一連の会話は 終了しました。そこに副校長先生が現れ、『何作っているの?』『果物』 と同じやりとりが始まりました。しかし、その先が全く違っていました。 『これはバナナかな』『そうだよ』『においをかいでもいい?』『いいよ』 『うん、うん、すてきなにおいだね、おいしそうだから食べたくなっちゃった』 『あげる。食べてもいいよ』と、最後まで(上手だね)という言葉は聞かれ ませんでした。子どもは(上手だね)と言う言葉を期待して遊んでいたわけ ではなかったのだと思います。そのため、副校長先生は誉めることではなく、 学習者に同化することを選択したのです。子どもに寄り添った授業の神髄を 副校長先生と子どもの会話から学ばせていただきました。」という内容です。

 この発表大会は2日間にわたって行われました。早速初日の失敗を 翌日2日目の参観で取り戻そうと再挑戦をしてみました。その結果、 上記の3例全てにおいてとてもすばらしい発見ができました。それまでの もったいない20年間が悔やまれましたが、実際にかかった費用の何十倍もの 収穫と爽快感を味わえた研修だったことは言うまでもありません。

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◇ ちょっと振り返り ◇

授業を振り返る
家政学部児童学科特任教授 稲葉 秀哉

授業の中で、生徒が「あ、そうか!」と得心し、自分の学びとする時、 その生徒の頭の中ではどのようなことが起こっているのでしょう。 生徒が、どのようにして学ぶ力を獲得するかを考える時、一つの方法として、 アプロプリエーション(取り込み)に着目することが有効です。

アプロプリエーションとは「クラスの中の誰かの発想や発言の中の言葉を、 別の生徒が取り込んで深めたり、つけ加えたり(秋田喜代美 2001)」するこ とです。

 例えば、答えが見つからず困っているAさんが、隣にいるBさんの答えや 考え方を聞いて、「あ、そうか! そうだよな!」と共感するとき、Aさんの 頭の中でぐちゃぐちゃしていたものが、(一瞬にして)整理され、自分の 答え(考え)がまとまるということがあります。これがアプロプリエーションです。 その時、「共感」とともに、その前提となる大切なことがあります。それは 「もがき」です。Aさんは必死に答えを見つけようと努力して(苦しんで)いる、 ということが大切です。考えがまとまらない思考の「もがき」があり、それが 整理されるということがなければ、アプロプリエーションにはならず、ただの 模倣となります。

この時、Aさんにとって、Bさんの答え方や考え方は、自分の考えをまとめる ための「道具」となりますが、共感のような情動を伴わずに機械的な操作で 答えを導いたのでは、深い学びには至りません。Bさんの答え方や考え方が、 Aさんの心に響いて共感し、内在化し、再構成されてはじめて深い学びになる のです。この心の響きや心の響き合いのメカニズムが、深い学びになる プロセスを見る上で重要です。

生徒は、他との関わりを通して学力を身に付けるということに改めて 着目すべきであると思います。社会的な関係、共感し合う関係の中で学力の 獲得が行われるということに、改めて焦点を当ててみることが大切です。 良い授業とは、教師?生徒?生徒の三者(三角形)の関係作りがうまく行われて いる授業です。三者の共感関係が成立した時に、深い学びが生まれます。 そして、不思議なことに、共感による深い学びを得た時、これまで互いに 関係がないと思われていたものが、実は複雑に絡み合っていることに生徒が 気づくということがあります。

 例えば、自分と他の生徒との日頃の関係、教師との関わり方、その日の 天候、教室環境、テニスが趣味であることなどといったものです。そのような 様々なものが互いに星座のように繋がっていたことに気づくことがあります。 同じレベルに位置しない様々なものや一見互いに関係がないと思われていた ものが、共感という核のもとで、有機的・立体的につながり合い、意味を持って 一つのコンステレーション(布置)を形成しているように思えるときがあります。

ある生徒が正答を言った時、「あ、私もそう思っていた。」「今、それを 言おうと思っていたのに。」等のつぶやきや叫びが同時多発的に起こることが あります。これを生徒の負け惜しみや嘘、偶然と見なすこともできます。 しかし、あるきっかけで何らかのコンステレーションが一斉に光ったとは 考えられないでしょうか。同時多発的な理解が、意味のある偶然の一致として 起こることが実際にあるのではないでしょうか。

授業の分析やデザインも、こういったことを考えながら行うと、もっと面白く なると思います。

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