カモミールnetマガジン バックナンバー(ダイジェスト版)

 2013年1月号 

◆ 目次 ◆ ----------------------------------------------------------------------

(1) 所長だより
(2) 教育時事アラカルト
(3) 学校経営の視点から
(4) 今月のおすすめ書籍

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◇ 所長だより ◇

子どもたちが歴史人物に寄り添い、歴史の事実について深く考える授業
教職教育開発センター所長   吉崎静夫

 明けましておめでとうございます。日頃から、このメールマガジンを愛読していただきまして、誠にありがとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今月と来月は、昨年の11月2日(金)と3日(土)の両日にわたって金沢市で行われた全日本教育工学研究協議会全国大会(金沢大会)の中から、金沢市立小坂小学校で行われた公開授業の様子を紹介します。

 北風の吹く、寒い日であったが、6年3組で行われた社会科の授業は、見学している人たちに寒さをまったく感じさせないほど、すばらしい実践でした。

 授業者は、30代はじめの榎木洋平先生である。本時の主題は「改革と大久保利通の思い」であり、そのねらいは「(子どもたちが、)改革を断行した大久保の思いを考え、近代的な国家の礎を築いたことを理解できる」にある。つまり、子どもたちが、兄のように慕っていた西郷隆盛らの士族を敵にまわしても改革を進めなければならなかった大久保の強い思いがどこから来たのかを資料にもとづいて考え、大久保の思いを自分の言葉で表現できることにある。

 授業は、まず、「大久保らが昔仲間であった士族を敵にまわし、故郷を攻撃し、西郷を死に追いやった」いわゆる西南戦争や全国での士族の反乱についての既習事項の確認から始まる。それに続いて、本時の課題「なぜ大久保は士族を助けずに改革を続けたのか」が板書される。筆者は、TPPや領土などの外交問題や少子高齢化に伴う社会保障問題に悩む今日の日本の政治状況に重ねて、この課題を考えていた。

 次に、教師は、教室に模造紙で掲示されている「西郷と大久保の年表」に注目させる。子どもたちは両者の年表を食い入るように見つめ、両者の決定的な違いが「欧米視察の旅」にあることに気づいていく。そこで、教師は、欧米視察団の様子をまとめた映像資料と、欧米列強が支配している世界の植民地の勢力図を電子黒板で提示する。そして、子どもたちは、「大久保が欧米を旅して何を感じたのか」を、これらの映像資料から読み取っていく。次々と映し出される「アメリカの豪華なホテル」「イギリスの近代的な工場や造船所」などの映像から、子どもたちは「日本と欧米諸国との国力の差」と「日本が植民化される危機」を実感し、大久保の思いに共感していく。つくづく映像のもつインパクトの大きさを筆者も再認識する。

 子どもたちは、大久保になりきって、西南戦争で亡くなった西郷へ手紙を書く。それぞれの子どもは、自分なりの言葉で表現している。

 最後に、教師は、大久保が西郷の死を知ったときの様子を「大久保の妹の証言」で子どもたちに伝える。「兄は焦燥しながら、グルグル歩き回って、目にはいっぱい涙を湛えていました。」

 子どもたちばかりでなく、参観者も、大久保利通の深い悲しみを共有する。真のリーダーは、いつの時代でも孤独で辛いものなのですね。

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◇ 教育時事アラカルト ◇

部活動指導と体罰の連鎖
教職教育開発センター教授  坂田 仰

 年末,大阪市の公立高等学校で,バスケットボール部の主将が自殺するという事件が発生した。同校はスポーツ系の学科を有し,バスケットボール部もインターハイ等に出場する強豪校であった。自殺の背後には,顧問教員による体罰が存在するのではないかと言われ,連日,メディアを賑わせている。

 文部科学省によると,平成23年度中に体罰を理由として懲戒処分を受けた教員は,小中高特別支援学校合わせて404人,そのうち部活動指導に関わる体罰の被処分者は110人であるという。ただ,この数字は氷山の一角と考えた方が良い。いじめと同じで,海面下に隠れている部分が多いからである。今回の事案でも,体罰を行ったとされる教員には以前から噂があり,調査の対象になったことさえあるが,「体罰はなかった」と結論づけられている。

 保護者や子どもはもとより,大げさに言うと,日本社会全体の体罰に対する意識が変わってきている。かつてであれば,許されていたような行為が,今では体罰と判断されるようになってきている。この社会の変化について行けない教員が少なくない。特に,体育会系の部活動を担当する教員にこの傾向が強い。自分たちの時代と比較して,「これくらいなら体罰にはあたらない」,「愛の鞭だ」という感覚で体罰に走っているように映る。厳格な上下関係の中で,濃密な人間関係が形成され,「部員は家族も同然」と信じ込み,親代わりという感覚で,体罰に対する「壁」が低くなってしまっている例もある。

 言うまでもなく,体罰は学校教育法11条但書で明確に禁止されている。体罰は,長らくの間,法制度と現実が著しく乖離してきた領域である。かつては,一定の体罰なくして血の通った学校教育の実現は困難であると断言した裁判例すら存在していた。だが,1990年代以降,裁判所はこの姿勢を転換し,ほぼ一貫して被害児童・生徒の側を支持する判決を下している。それ故に,今後は,行政責任(懲戒処分),民事責任(損害賠償)に加えて,体罰教員の刑事責任が追及される例が増加していくものと予測されている。「校長及び教員は,教育上必要があると認めるときは,文部科学大臣の定めるところにより,児童,生徒及び学生に懲戒を加えることができる。」,「ただし,体罰を加えることはできない。」という条文の意味を,学校現場は改めて考える必要性があろう。

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◇ 学校経営の視点から ◇

担任の学級経営力を育てる校長に (4)
教職教育開発センター客員研究員 田部井洋文

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 昨年10月より本コーナーでは「担任の学級経営力を育てる校長に」をシリーズで取り上げていますが、前回のテーマは「学級が集団としてまとまるようにする」でしたので、今回は、「学級が集団として動くようにする」ことに対する校長の指導・助言ついて考えることにします。

 先ず、学級が集団として動くためには、担任は「学級目標」を持つことを子どもたちに働きかけることから始めることになる。そして、どの学校に行っても大部分の学級において、教室前面に「学級目標」なるものが掲示されている。しかし、私はその学級目標なるものを吟味することから始める必要があるように思っている。それは、抽象的なスローガンレベルに留まっていることが多いからである。学級目標というものは、その学級の基本的なあり方や方向を示す目標であるが、スローガンに終わらせず、その目標を支える「具体的な目標」、すなわち「結果が学級の子どもたちで判断できる目標」をサブ目標として設定したいと考えている。この具体的な目標は、学級全体にとっても、子どもたち一人一人にとっても成長や向上、人間関係等において願っていること、求めているものとならなければならない。よって、具体目標の設定に当たっては、子どもたちと学級の状況や個々の願い及び取組み期間等を十分に話し合って決めていくことになる。そして、その具体的目標の達成に向けては、子どもたちによる様々な工夫や努力・協力等を要することが求められ、どの子も成就感を味わえる取組みとなるような活動を仕組むことが重要となる。まずはこの学級の具体目標=成果を子どもたちが判断することができる目標の設定について、校長として助言したい。

 次に、学級がこの具体目標に向かって動き続けていくためには、設定した目標の意味、価値について子どもたちが納得し続けられるように繰り返し説明し、認識を深めていくようにすることが重要である。一度全員で話し合って決めたからと言って、後は掲示しておけばよいというものではない。それでは学級が動き続けることは困難である。具体目標の設定を受けて、係や班などのレベルにおいては「係目標」「班目標」として、個々のレベルにおいても「個人目標」として設定させ、これらが学級目標とどうつながっているのか、どうつなげたらよいのかを説明し、理解を深めていくことを忘れてはならない。さらに、それぞれに定めた目標に対して、係のどのような取り組みや個人のどのような行為が、どうして望ましいのかを、その都度取り上げて説明していくようにしたい。こうすることによって目標に向かっての動きが継続されるのである。この場合に留意することは、取り上げる行為やそれへの評価、説明に一貫性がなければならないということである。そうでないと目標の実現に向かっての学級の動きにねじれが生じてしまうことになる。目標に対する担任の深い認識が問われることになる。これらは校長の学校経営における配慮点と同一であるので、その観点から助言していきたい。

 もう一つは、学級が集団として動き続けるには、担任の強いリーダーシップによって動きを作りだす場面と、子どもたちを主にした企画運営で動かしていける場面とがあり、これらを適切に使い分けると言うことである。例えば、クラス替え直後で、学級目標が不明確な時期には、担任は一定の期間の集団の方向付けを行うようにする。逆に、係活動などが目標に向かって活発に取り組まれている場合や、学級全体で取り組みたい課題を見出し、それへの達成能力が備わっているとみられる場合は、子どもたちに任せていくようにする。学級が集団として今どのように動いているのかを見極めることが求められる。校長による学級経営への助言内容は、学校経営における自らの在り方を反映させたものと言えるのではないだろうか。

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◇ 今月のおすすめ書籍 ◇

〜 「伝える技術」を教える前に〜
「わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か―」
平田オリザ著 講談社現代新書  定価740円(税別)

「近頃の若者にはコミュニケーション能力がない」。多くの企業で、大人たちはしきりに嘆きます。ところが、著者は日本企業が求めているコミュニケーション能力は、企業側も気づかないうちにダブルバインド(二重拘束)の状態に陥っているのではないかと指摘します。「異なる文化や価値観を持つ人に対しても自己主張できる」という「異文化理解能力」と「上司の意図を察して行動する」「空気を読んで反対意見は言わない」といった日本社会の「同調圧力」。「2つの矛盾した要求に人々は苦しめられている」というのです。さらに、若者たちは少子化で兄弟姉妹も少なく、親や教師など大人が「先回りして」くれるため、自分の要求や気持ちを言葉で説明する機会が乏しいこと、友人同士でも衝突や摩擦を避ける傾向にあるのでコミュニケーションに対する意欲が低下しているとみています。

これに対し、学校はコミュニケーション教育として、スピーチやディベートなど「伝える技術」を教えてきましたが、著者は今の若者に足りないのは伝える技術ではなく、他人に「伝わらない」「わかりあえない」という経験や何とかして「伝えたい」ともがく経験ではないかといいます。劇作家・演出家として活躍してきた著者は現在、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授として、理系大学院生を相手に演劇を通じたコミュニケ―ション教育を行っています。コミュニケーションは苦手とする学生たちですが、改訂を重ねて作品に仕上げていきます。中でも「理系のポスドクばかりがアルバイトで集まるファミレス」という設定の作品は専門性を生かしたユニークな作品でした。

本書では、演劇はもちろん、言語や文化を背景としたコミュニケーションの特質など多岐にわたる話題から「わかりあえないところから出発するコミュニケーション」を考え、「わかりあえない中で少しでも共有できる部分を見つけた時の喜び」が語られます。コミュニケーション教育を国語教育に押し付けがちな私たちに深く考える機会を与えてくれる一冊でもあります。 (関)

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