カモミールnetマガジン バックナンバー(ダイジェスト版)

 2018年10月号 

◆ 目次 ◆ ----------------------------------------------------------------------

(1) 所長だより
(2) 児童・生徒の理解と指導 ―教師の「視点取得能力」の獲得と育成を中心に―
(3)教育時事アラカルト


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◇ 所長だより ◇

授業研究における理論と実践の関係(8)
           教職教育開発センター所長  吉崎静夫

 今号は、田尻悟郎の教育技術論を支える「教え方の工夫」を、「文型導入」を例に挙げながら考えてみます。
 英語教育学者の横溝紳一郎によれば、田尻の文型導入の特徴は、
「クラスルームイングリッシュによる『重要表現の刷り込み』」
にあるということです。

 つまり、田尻の授業では、教科書を開いて、初めてキーセンテンスが出てきたときに、「なんで今頃これが出てくるの?」という状態にすることにあります。普段の英語教室において、まだ教科書に出てきていない文型(キーセンテンス)を必要な状況や場面で生徒に自然に使わせています。まさに、状況学習です。

 このことについて、田尻は次のように説明しています。
「授業中、生徒が教師に話しかけるとき頻繁に使う表現は、『〜してもいいですか?』や『〜するんですか?』『〜と思います』などである。これらはいずれも中2で学習する表現であるが、私はその時間まで待つ必要はないと考えている。生徒が必要としたときにタイムリーに導入し、毎日のように使うことによって慣れさせ、教科書に出てきたときにはある程度習熟しているというほうが、初めて習った日に集中的に練習して終わりというよりは、はるかに効果的である」

 まさに、「習うより慣れろ(Practice makes perfect.)」ですね。
 ここで、田尻実践の具体例を挙げてみます。

 1年の1学期に導入した文型(キーセンテンス)は、つぎの通りです。
【場面1】アルファベットをなるべく速く書く練習をしているとき。
生徒:終わった!→I have finished.(現在完了形)

【場面2】What's this ? It's -------.を練習しているとき。
教師:What's this ?
生徒:It's a pen.
教師:Are you sure ?
生徒:I think it's a pen.(複文)

【場面3】タイム競争などで。
生徒:May I use a timer ?(許可を求める)
教師:Yes/ OK.

 田尻の文型導入を教育技術論の観点から考えてみましょう。
 教科書では数回しか出ない文型を、日頃から使わせる場面を設定して、生徒に頻繁に使わせて慣れさせることは、他の教師にも伝達可能な「一般的教育技術」ですが、どの授業場面でどの文型を導入するかという教育技術は田尻悟郎という優れた教師の個性的なものだといえます。

【参考文献】
※1 田尻悟郎監修,横溝紳一郎編著:『生徒の心に火をつける ―英語教師田尻悟郎の挑戦―』:教育出版,東京,2010年

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◇ 児童・生徒の理解と指導   ―教師の「視点取得能力」の獲得と育成を中心に― ◇
           家政学部児童学科特任教授  稲葉 秀哉

<7> 「一致」共感的理解」(Empathic Understanding)

 ロジャーズは、1957年に発表した「建設的人格変化のための必要十分条件」の論文の中で、6つの条件(注1)を提示しました。その5番目と6番目が「共感的理解」に関する条件です。
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(5) セラピストは、クライエントの〔内的照合枠(internal frame of reference)〕に対する共感的理解を体験しており、この体験をクライエントに“伝えようと努めていること”。
(6) セラピストの体験している共感的理解と無条件の積極的関心が、最低限クライエントに〔伝わっていること〕。
(※上記の〔 〕は筆者による)
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 また、ロジャーズは、同論文の中で、「共感の状態(あるいは共感的である)は、あたかもその人のように、でも‘あたかも’の感覚を決して失わずに、正確に、そして、感情的な構成要素と意味を持って他者の内的照合枠を正確に経験することである」と述べています。本章では、「共感的理解」に関わる縦横な要素として「内的照合枠」「伝える」「‘あたかも’の感覚」を取り上げ、考察します。

【1】「内的照合枠」
 内的照合枠(internal frame of reference)とは、個人がなぜその思考・判断・感情等を持つのか、その基準となる心的な枠組みのことです。例えば、ある事象が起こった時に、それに深く関わるその人の過去の感情や記憶、知識等がその時に反応して結びつき枠組み(frame)となり、それが、その事象についてのその人の思考・判断・感情等の基準となるという考え方です。その人の「ものの見方・考え方」「視点」あるいはその原点となるものと捉えると分かりやすいでしょう。

【2】「伝える」
 坂中・他(2015)は「カウンセラーはクライエントの話を聴き、クライエントの生きている世界、感じている現実、考えや感情的な部分などを、クライエントの感じているままに理解しようと努める。そしてカウンセラーは、クライエントの言葉を用いて、時にはカウンセラー自身の言葉に代えてその理解をクライエントに伝える。(中略)カウンセラーが共感的理解を示すことにより、クライエントが『カウンセラーに分かってもらえた』『知ってもらえた』と感じることが可能となる」と述べています。

 三國(2015)は「《無条件の積極的関心》と同様、《共感的理解》はクライエントに最低限伝わっていないといけない。つまり、カウンセラー側が『自分はクライエントを共感的に理解している』と思っているだけでは、共感的理解でもない」と述べています。
 このように「共感的理解」において「伝える」ことは重要ですが、その伝え方は様々です。カウンセラーの表情や語気、仕草等の非言語的な伝え方もあります。
 では、言語的な伝え方はどうでしょう。これまでの学校現場では、カウンセリング・マインドを持った指導として「生徒に共感的に接し、生徒自ら自分の言葉で話すのをじっと待つことが重要である。」と考えられてきた傾向があります。しかし、すでに明らかなように、ロジャーズはそのようなことは言っていないのです。

 ロジャーズ(1975)※1は、「伝える」ことに関してエンカウンターでの一場面を紹介しています。
「一人の男性がエンカウンター・グループの中で父親に対するあいまいな否定的感情を表現しました。ファシリテーターは、『お父さんに対して怒っているように思えますが…』と伝えると、彼は『違う。そうは思えない』『じゃあ、お父さんに不満を感じている?』『う〜ん、多分』(その声ははっきりとしてはいない)『お父さんに失望している』というファシリテーターの言葉に対して、彼は素早く『それだ! 私は父が強い男でないことに失望しているんだ。子供の頃からずっと父に失望していたんだ』」

 このように、共感的理解においてカウンセラーは、クライエントの言葉を用いて、時にはカウンセラー自身の言葉に代えてその理解をクライエントに伝えることがあります。その時に注意することが「‘あたかも’ の感覚」をカウンセラーが持つことです。

【3】「‘あたかも’の感覚」
 三國(2015)は、「イギリス人のパーソンセンタード・アプローチ臨床家が、来日し(中略)そのとき彼女が使った表現で、‘put oneself in someone's shoes’という言葉があった。これは「〜の立場で考える」という表現であるが、《共感的理解》と〈内的照合枠〉を考えるのに分かりやすい表現だと思う。」そして、本当にはクライエントの靴の履き心地は分からないが、「‘as if….’(あたかも〜のように)の感覚を忘れないでいる事が大切なのである。‘as if….’の感覚のない他者への《共感的理解》は、共感的に相手を理解しようとしているのでなく、同情である。」と述べています。ロジャーズ(1957)が「共感の状態(あるいは共感的である)は、あたかもその人のように、でも‘あたかも’の感覚を決して失わずに、正確に、そして、感情的な構成要素と意味を持って他者の内的照合枠を正確に経験することである。」と述べている意味はここにあります。(次号に続く)

(注1)ロジャーズによる「建設的人格変化のための必要十分条件」
(1) 二人の人が心理的な接触をもっていること。
(2) 第一の人(クライエントと呼ぶことにする)は、不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること。
(3) 第二の人(セラピストと呼ぶことにする)は、その関係の中で一致しており、統合していること。
(4) セラピストは、クライエントに対して無条件の積極的関心を体験していること。
(5) セラピストは、クライエントの内的照合枠(internal frame of reference)に対する共感的理解を体験しており、この体験をクライエントに伝えようと努めていること。
(6) セラピストの体験している共感的理解と無条件の積極的関心が、最低限クライエントに伝わっていること。
(坂中, 2014より)

【参考文献】
※1 Rogers, C.R.: Empathic: an unappreciated way of being. The Counseling Psychologist: 5(2), 2-14. E4, 1975

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◇ 教育時事アラカルト ◇

部活動費の会計管理
−清算義務をめぐる衝突−

           教職教育開発センター教授  坂田 仰

 いわゆる部活動は、教育課程外活動として、多くの中学・高等学校で熱心に行われている。だが、法的性質には不明確な部分が多く、その管理は専ら慣行に委ねられていると言っても過言ではない。「管理」というと、練習場所の確保や指導方法を思い浮かべる。だが、部費等の会計管理も含まれていることを見逃してはならない。

 改めて指摘するまでもなく、会計の担当者には、高いモラルが求められる。しかし、部活動という特別な環境の下、その処理が、つい杜撰になりがちである。ましてや全国レベルの強豪校ともなると、部活動の予算も多額に上り、大きなトラブルに発展することもある。

 この点、かつて春の高校バレーの強豪校を舞台に、会計管理の在り方をめぐり保護者と監督、学校側が衝突した例がある(広島高等裁判所判決平成14年7月25日)。

 保護者は、毎月一定額を部費として支払い、それとは別に、遠征費、合宿費などの名目で、必要に応じて求められる額を納めていた。監督が、それを精算をせず、余剰金を不正に領得していたこと、遠征費や合宿費の一部を懇親会費等と称して自らの飲食費等に使用したこと等が、不正に当たると主張し、訴訟に踏み切った。

 判決は、保護者が、部費、遠征費や合宿費についての精算や会計報告をこれまで一切求めていなかったこと、監督が遠征費、合宿費を流用したと認められる証拠が存在しない点に着目する。
 そして、こうした状況下では、「会計報告を行わず、余剰金を返還していないことをもって直ちに不法行為を構成するとまではいえない」とした。

 だが、保護者から要求されてもなお、精算、会計報告義務はないと主張する学校側に対し、その不誠実さを認めている。
 判決は、特定の支出に充てられる「遠征費・合宿費」については、その目的で保護者から預託した金銭であり、学校側には、精算義務、会計報告義務があるとした。日常の運営に充てるために徴収する一般的な部費と、特定の目的のために徴収する費用を区別し、少なくとも後者についてはきちんとした清算義務を課そうとする姿勢である。

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