カモミールnetマガジン バックナンバー(ダイジェスト版)

 2017年5月号 

◆ 目次 ◆ ----------------------------------------------------------------------

(1) 所長だより
(2) 「考える道徳」「議論する道徳」の推進―批判的思考力及び自律性の育成を中心に―
(3) 今月のおすすめ書籍

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◇ 所長だより ◇

一人称としての授業研究(2)
           教職教育開発センター所長   吉崎静夫

 先月に続いて、「一人称としての授業研究」について考えてみます。

 教師は、授業中に、何を見て、何を感じ、どのようなことを考えているのでしょうか。さらに、どのような判断や意思決定をしているのでしょうか。このような教師の内面過程に、授業当事者の視点から迫るのが「一人称としての授業研究」です。

 ところで、これまでの授業研究では、授業をビデオカメラで録画し、授業記録をとる方法が盛んに行われてきました。ビデオカメラが安価になるとともに、その撮影方法も容易になるのにつれて日常的にビデオカメラが授業研究に用いられるようになりました。

 ただし、そこでは教師や児童生徒の言語的・非言語的行動、板書、掲示物などを第三者(撮影者)の視点から撮影する方法がとられていました。

 生田らは、教師と児童生徒を第三者の視点から映し出すカメラを「客観カメラ」とすれば、教師(授業者)の視線の方向から教室風景(主として、児童生徒)を映し出すカメラは「主観カメラ」であると述べています。つまり、「客観カメラ」で録画された授業記録が主として「三人称としての授業研究」で用いられるのに対して、「主観カメラ」で録画された授業記録が主として「一人称としての授業研究」で用いられるのです。そして、「二人称としての授業研究」では、これら二つのカメラを併用することになります。

 ところで、教師(授業者)の視線の方向から教室風景(主として、児童生徒)を映し出すビデオカメラは、どのようなカメラなのでしょうか。それは、教師(授業者)の頭部に装着するウェアラブルカメラです。近年、このカメラが比較的安価で、装着しやすいことから急速に普及しています。

 なお、ウィキペディアによれば、「ウェアラブルカメラとは身体等に装着しハンズフリーで撮影できる事を目的とした小型カメラの総称。通常のビデオカメラとは違い小型で軽量なため、ヘルメットやバンド等に装着することによってヒトや動物の身体に繕うことが可能である」ということです。授業研究では、教師(授業者)の頭部にバンドで装着する形式が便利です。例えば、よく使われるパナソニック社の4Kウェアラブルカメラで2万5千円程度の価格です。今後、広く使われることでしょう。

文献
●生田孝至・棚原綾乃「主観カメラとカード構造化法による教師の授業認知研究の試み」
   日本教育実践学会第19回研究大会論文集、87−88頁、2016年

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◇ 「考える道徳」「議論する道徳」の推進   −批判的思考力及び自律性の育成を中心に − ◇
           家政学部児童学科特任教授 稲葉 秀哉

第1部 道徳の授業を取り巻く諸課題

3 教科書検定での課題
 NHKの「時事公論」(2017年3月24日)では、教科書検定に合格した道徳の教科書の内容を見て、次のように述べています。

 「学習指導要領には「感謝」「礼儀」「公共の精神」など22にわたる項目が示されていて、今回の検定では、これらの項目を完全に満たしきらないと合格しないことが明らかになりました。自由発行自由採択の検定教科書とは言え、国が定める国定教科書とそう大きくは違わない。学習指導要領が示している内容をすべて満たしていなければ、クリアとならない。タガがきっちりとはまっているのです。」

 「どんな課題が浮かび上がってきたのでしょうか。3点あげたいと思います。」

 「一つは、先生の指導に自由度はあるのか? 運用次第で、自由度がなくなり、型にはめ込んでしまう心配があります。」

 「二つめは、本当に「考える道徳」「議論する道徳」になるのか?表面上は、考えたり、議論したりするようになるかもしれませんが、問題解決型とはいっても、結局は正解があって、そこにたどりつかせるための話し合いになりかねません。議論しているようで型にはめていく、多様性の尊重という意識から次第に遠ざかっていかないか、気になります。まして、こどもたちに成績をつけるようになると、一つの正解に向けてよい発言をするいわば「気の利いた子」が先生に好まれ、違う意見を持つことで教室にいづらいと感じるこどもが出かねません。」

 「三つめは、これでいじめがなくなるのか?道徳を必修にしたからいじめをなくせるほど簡単なことではありません。教科にする議論は、大津のいじめ事件をきっかけに高まりました。善悪を判断できない今のこどもたちに道徳性を身につけさせることでいじめをなくそうというのです。しかし、扱い方次第では、いじめを助長することにならないか心配になる教材もあります。朝寝坊やいたずらを繰り返すこどものエピソードを取り上げ、こうした『困ったことにならないようにするために、どうすればよいか話し合ってみよう』と問いかけています。これを題材に、規律だけを強調し、背景にある事情、たとえば発達障害があるとか、家庭的な貧困状態にあることが忘れ去られて授業が行われると、こどもたちの間に差別的な感情を生むことにつながりかねません。正しいことを正しいというだけではこどもに届かない。道徳という教科はそうした危うさをはらんでいることを現場の先生には意識してほしいと思います。」 

 このように、「時事公論」では、検定を受けた教科書について、三つの課題が提起されました。どれも重要な課題ですが、「これでいじめがなくなるのか」という課題については、特段の注意が必要です。

 ある教科書では、「るっぺ どうしたの」という朝寝坊やいたずらを繰り返す子供が登場する読み物を取り上げ、「るっぺのようなこまったことにならないようにするために、どうすればよいか話し合ってみよう。」と問いかけています。「時事公論」でも危惧していますが、このような問いかけは道徳の指導として適切ではありません。道徳だけではなく、クラスの問題について話し合い活動を行う学級(ホームルーム)活動においても不適切です。なぜでしょう。

 まず、この問いかけでの「こまったこと」という文言です。「こまったこと」という文言そのものに問題があるのではなく、使い方に問題があるのです。この問いかけ方では、子供たちは「こまったこと」を「こまった子」に置き換え、「こまった子、るっぺ」と連想的に直結させてしまいます。そのような傾向は人間の心理の常です。配慮に欠ける問いかけであると言わざるを得ません。子供たちは、この問いかけを教師から聞かされれば、「先生は、るっぺを困った子と考えている。」と自然に思い込みます。「るっぺはクラスの厄介者。」「るっぺと同じような子がクラスにもいる。」が前提となって授業を進めることにもなりかねません。では、問いかけ方を改善すればよいのでしょうか。問いかけ方を吟味することは大切です。しかし、その前に、もっと根本的な問題が、奥深いところにあるように思います。次回はそのことについて考えます。
                                                                                                         (次号に続く)

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◇ 今月のおすすめ書籍 ◇
〜人工知能を知ることは人間を深く知ること 〜
「人工知能の核心 」

「今後10〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される」、「子どもたちの65%は将来、今は存在していない職業に就く」―人工知能の急速な進化により私たちの社会や生活が大きく変わる未来予測のいくつかです。昨年5月に放送されたNHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る」を覚えている方もいるかもしれません。人工知能に並々ならぬ関心と知見をもつ羽生氏が番組制作時に取材した研究者や開発者たちとの対話をもとに、人工知能の様々な「論点」について考えをまとめたのが本書です。

「人工知能が人間に追いついた」「人間にあって、人工知能にないもの」、「人に寄り添う人工知能」、「『なんでもできる』人工知能は作れるか」、「人工知能といかにつき合えばよいのか」という各章で構成され、各章末には番組担当ディレクターが客観的な解説や関連トピック等を補足します。

将棋、囲碁、チェス等ボードゲームの世界では、すでに人工知能との対戦も現実のものとなっています。プロ棋士が次々と人工知能に負かされる中、驚くことに羽生氏自身は「今、将棋の人工知能は、陸上競技で言えば、ウサイン・ボルトくらいです。運が良ければ勝てるかもしれない。しかしあと数年もすれば、F1カーのレベルに達するでしょう。そのとき、人間はもう人工知能と互角に勝負しようとは考えなくなるはずです」と言います。人工知能の進化と人間を対立構造で捉えるのはなく、むしろ、人類の可能性を広げるものと考える羽生氏。プロ棋士としての感覚や経験、将棋界の実情も交えながら、難解になりがちなテクノロジーが分かりやすく丁寧に解説されています。そして、最終章で羽生氏が語る感想は、「人工知能について知ることは、人間について深く知ることであるのかもしれません」。「人間しかできないことは何か」という問いへの答えも隠れている興味深い一冊です。              (猫)

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