花の恩返し
光陰矢の如し、という古い言葉がある。
時の流れの速いことを、弓から放たれた矢に譬えたものであるが、最近、年をとったせいか、過去を振り返るたびに、そんな感慨を抱くことが多くなった。
なにしろ昭和の初めの頃の生れで、日中戦争、太平洋戦争と、幼稚園、小学校、中学二年生くらいまでは、物資の欠乏、飢餓、インフレ、連日連夜の米国軍による空襲に苦しめられ、挙句のはてに家を焼かれ這々の体で都落ちする始末。戦後は焦土と化した生れ故郷へ戻ってはきたものの、日本経済は敗戦によって、壊滅的な打撃を受け、国産の自動車や飛行機が生産されることは最早二度と再び有り得ないだろうとさえいわれたものだ。
米ドルは一応一ドル三百六十円と定められていたが、実際には闇で一ドル五百円から六百円位で取り引きされていた。つまり、それが当時の日本の実力だったのだ。
しかし、昭和三十九年の東京オリンピックを機に日本は大きく変ったように思う。東京は下水道が完備し、高速道路ができ、新幹線が走るようになった。
ちょうとこの頃、わが家では長女が日本女子大学附属の豊明幼稚園に合格したため、その送迎用やら何やらで国産車を購入した。中型の新車で七十万円だった。
それ以来、長女も次女も日本女子大学にお世話になり、二人の在籍年数を合計すると三十八年になる。それに女房の分を加えると四十八年、私自身もPTAの役員として三十八年、更に卒業生の父母の会である目白会で二十年お世話になっているから、総計すると七十年分くらい親子共々、日本女子大学には深いご縁をいただいたことになる。ありがたいことだ。
しかも昭和三十九年から今日までのおよそ半世紀の間は、私の人生の中ではまことに平和な、物心両面に亘ってかなり充実した期間だったと思う。もしわが家がこの学園と無縁だったとしたら、娘たちが他の幼稚園に入っていたとしら、熾烈な受験戦争やいじめの多い学校へ行っていたとしたら、まだいろいろ有るけれど、すでに成人し家庭を持った娘たちや私たち老夫婦は、今のような仕合わせな心境でいられたかどうかはなはだ疑問だ。
だから、私たち家族はこの学園に大きな愛着を持ち、恩義を感じ、敬意を抱いている。そして娘たちはすでに卒業して、かなりの年月を経過しているが、これからこの学園に入学してくる娘さんやそのご家族のためにも、日本女子大学及びその附属校の繁栄を願っている。
目白会は昭和四十一年一月二十九日に設立されてから、平成二十二年には四十四歳の誕生日を迎えることになる。
当初から、私と同じようにこの学園を愛し、また創立者成瀬仁蔵先生を尊敬してやまない人々によってこの会が組織され、支えられていることに対し、私は心から感謝したい気持ちで一杯だ。聞くところによると、全国におびただしい数の学校がある中で、目白会のような卒業生の父母による支援団体というのはほとんど見当たらないそうだ。
たしかに卒業生の会はどこの学校にもある。父母会、父兄会、PTAの存在もごく当たり前だ。しかし、子どもたちが卒業したあとも父母の会が残っていて、学校の更なる繁栄を願い、活動を続けているというのは珍しいことかもしれない。だが、それが存在し、半世紀近くも継続しているというのが、いかにも日本女子大学らしいところだ。
前近代的かもしれないが、その中にこそ、成瀬仁蔵先生以来脈々と受け継がれてきた大切な本学の心が在るのではないだろうか。
現在の目白会の主な活動は、留学生への奨学金供与、校内美化のための植樹・植栽、講演会、親睦会等であるが、資金は必ずしも潤沢とはいえず、気持ばかりが先行するのが実情である。
今年の正月に成瀬講堂と百年館の間に植えた桜の木は、春には可愛い花を咲かせた。来年は目白キャンパスの花壇に花の苗を植え、せめて学園を明るい色と香りで飾りたいと思う。
「目白会だより第52号」より
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