目白会四十年の歩み
平成18年も残り少なくなってきたが、この年は、目白会にとって40周年というまことに記念すべき年であった。
このことは、今年正月の新年会でも、ご挨拶の中で触れておいたが、今から40年前の昭和41年1月29日午後2時から、日本女子大学泉山館において目白会の創立総会が開催され、規約及び荘寛会長をはじめとする役員が決定され、その第一歩を踏み出した。副会長に石川秀敏氏、林麟四氏、幹事には愛知揆一氏など錚々たるメンバーが名を連ねている。
当時の学長は有賀喜左衞門先生、会員数は747名で、特筆すべきは、総会終了後に催された懇親会に時の文部大臣中村梅吉氏が臨席されて、お祝いのお言葉があったことである。
全国でもあまり例のない、学園卒業生の父母を中心とする学校支援組織の発会は、内外から大きな注目を集めていたようだ。
目白会発会の動機は、永い間子どもたちがお世話になり、また親同士もお互いに交流を深めていたのに、一度卒業してしまうと、その感謝の気持や親しみが日に日に薄れて行くのを残念に思い、大学の父母会である泉会の幹部の方たちが中心となって話しを進められたのが発端であるが、直接のきっかけは、昭和40年、上代タノ先生が学長を退かれた際の感謝の会の席上で、先生のお勧めもあり、にわかに具体化したのだそうだ。
通常、学校と父母との関係は、生徒である子どもたちを間に挟んだものであり、成績のことや生活指導など時たま学校に呼び出されること以外は、あまり親密なものではない。ところが日本女子大学とその附属校にあっては、永い人では幼稚園から大学までの19年間。姉妹ともなるとそれ以上の期間お世話になるわけで、親しみも大いに増してくる。父母同士の付き合いも自然と深まるわけで、そうした雰囲気が学園全体を包み、女子校ということもあるかもしれないが、なんとなく温かいやさしいムードが漂っている。
子どもが卒業しても、なお、学園のために協力したいと考える理由の一つに、そのようなことも挙げられるのではないだろうか。それと、何といっても創立者成瀬仁臓先生によって培われた進取の気象に豊む校風を守り育てて行きたいという願いである。
これらのことは、たとえお子さんが大学の4年間しか通学なさらなかったご父母の方々にも、充分理解していただけるのではないだろうか。
現在、目白会の事業の中で大きな柱となっているのは、留学生に対する援助金の支給であるが、これが始まったのは、昭和61年からで、会長は6代目の田中正一郎氏、ちょうど目白会が発足して20周年を迎えた年であった。
ちなみに2代目会長は、高橋三郎氏、3代目林麟四氏、4代目遠藤九十九氏、5代目石川秀敏氏である。
目白会の事業の中に奨学金制度を設けるべきだという意向は、早くからあったらしい。しかし、限られた予算と、全学生を対象とした学内の奨学金は既に20数種もあることから、なかなか実現にはいたらなかった。
そんな折、ある会合で青木学長が、このところ東南アジアを中心として海外の留学生が増えているが、彼女たちを対象とした公的な奨学金制度は非常に狭き門で、なかなか受けることができない。何か別の方法で母国を離れて勉強している留学生たちを援助することはできないだろうか、という話しをされた。
結局それがヒントになって、今のような留学生にお小遣い程度ではあるが、援助金をさしあげることになったようである。
これを泉会にも参加してもらい、共同でおこなうようになったのは、次の7代目武居会長の時からではなかったかと思う。
当時から卒業生に贈られたコサージュは、30周年のころからテレホンカードになり、その後、携帯電話のストラップそして今年度はタオルのハンカチへと変化してきた。
時の流れ、世の移り変わりにより目白会の活動内容にもさまざまな変化が生じる。が、それはむしろ当然のことだろう。どんな事業においても時と共に変化して行かなければならない。
しかし、どんなに時が経過しようとも変わってはならないものがある。それは会の設立当初の初心ともいうべき、日本女子大学を愛し、感謝する心、会員相互の親睦にほかならない。
創立40周年の記念すべき年にあたって私はあらためてそのことを胸に深く刻むのである。 「目白会だより第49号」より
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